今の状況をどうにか変えたい…!そんな人へ届け
なかじん「正直、このままじゃ一生同じ景色なんだろうな…」
公務員やってる時、そう何度も思った。
何かが嫌とか、上司がどうとか、そういう小さな不満じゃなくて、
「自分の人生を、このままレールの上だけで終わらせたくない」
「自分で道を切り開いて、人生進めていきたい!」
そんな「くすぶり」がずっと胸にあった。
この記事では、
なぜ「ガチガチの公務員」だった僕がWeb制作で独立したのか?
公務員から抜け出した人間が、今どんな道を歩いているのか?
包み隠さず全部話します。



赤裸々すぎてこの記事は「いつか消す」かもしれませんw
今はどんな状況かと言うと、、、
公務員→Web制作で独立して、ありがたいことに6つの事業を展開しています。(2025年12月時点)
・Web制作事業(主に自社ECサイト運用/採用サイト支援)
・コンテンツ販売事業(営業文マスター講座販売 )
・制作会社への営業文づくり&面談強化サポート
・自分1人のキャパで限界を迎えた方へ 事業の仕組み化サポート
・業務効率化ツールの開発(AI開発)
・オンラインコミュニティの運営サポート
収入の変化で見ても、
月20万の公務員 → 月100万円〜200万円を超える月も増え
フリーランスで心配されがちな、「収入の上下」についても
複数の事業を進めることでベースの収入も安定してきました!
なにより、自由に自分がやりたいことや
好きな人間関係で仕事が回っていることが最高ですねー!
圧倒的に、家族の時間や予定を立てて旅行行くとかしやすくなりましたね。
去年は、「世界一物価が高い国」スイスに1週間以上旅行も行けて
大満喫してきました〜!🇨🇭


ただ、そんな状態になるまで
グワングワン気持ちや環境の変化があったんですよね…
この記事では
「僕がWeb制作を始めるまで」を綴っていくので
「今の会社に違和感がある」人や、
「自分の自由がぜんぜんない…」と思っている人、
「Web制作の学習や営業を頑張ってる人」はぜひ読んでほしい。
結論から言うと…
Web制作を始めた理由は大きく2つ。
・Web制作をきっかけに「自由に生きたい」と思ったから
・誰かの「犠牲の上に成り立つものづくり」をしたくないから
この2つを語るには、どうしても一番最初の僕からお話したい🙏
幼少期、震災、進路、家族との別れ、公共事業、公務員…
すべてがつながって、ようやく「Webだ!」と気づけたですよね…。
幼い頃〜中学生の自分
ぼくは幼稚園〜小学生のときから
めちゃくちゃ『ものづくり』が好きでして、、、
・おもちゃ売り場で買うものは、決まって「レゴやブロック系」
・家の庭で、泥団子や水路とか土の山を作って、なぞの遊びを繰り広げる。
・好きなテレビ番組は『劇的ビフォーアフター』(家建て変える番組。なつかしい…w)
こんな感じの少年でした笑


そんなこんなで、中学生になり
「高校、どこ行こうかな〜〜?」
「なんとなーく、モノづくりしてぇなぁ…」
と思っていた矢先、
東北地方で東日本大震災が発生。
「災害・防災」に関わるニュースがばんばんテレビで放送されていました。
災害によって、
一瞬で自分の住んでいた地域が理不尽に奪われる。
この光景を見ていて、
中学生の自分はテレビ越しに、
「…。」
なんと言ったら良いか…声が出せず、とてもやるせない気持ちになりました…。
幸いにも、大きな被災は無い地域に住んでいたのですが
大きな災害をキッカケに、
モノづくりするにも
「人の役に立ったり、人の生活守れたりするのがカッコいいな!」
と思うように。
モノづくりしたい!
→ 人の生活守れたらカッコいい
→ そうだ!災害から人や街を守る『防災』が良いかも!
→ 工業系の学校で、「防災のモノづくり」を学ぼう!
こんな安直な考えで、僕は工業系の専門学校へ進学を決めたんです。
刺激MAXの高校生活スタート!
僕が進学した専門学校は特殊なところで、
中学卒業して入学から『5年間』
おなじ学校で工業系のことを学ぶ学校だったんです。
さらに大学でいう大学院みたいな存在もあり
プラス2年間、研究や在籍することもできる。
先に、僕の学生生活の全容をお伝えしちゃうと
5年+2年(大学院みたいな存在)の計7年同じ学校で過ごしました笑
「え、長くない?…」って声が聴こえてきそうですが、
僕にとってはマジで一瞬だったんですよね笑
中学卒業してからは、親元を離れて
ずーーーーーっと寮で集団生活してました。
学校が終わって家に帰ると
ずっと友達や先輩いるみたいな環境が7年続くわけです。
リアルに毎日が修学旅行の夜みたいな。笑



プライベート空間とかほぼ無いですw
(ルームシェアとか3年間あったな…)
自分で言うのもなんですが、
なかなかこんな特殊な学生生活を過ごした人
周りに居ないんじゃないかなぁーと。笑
そんな高校時代は、人目を気にせず
好奇心のままに、面白そうなことに熱中していましたね〜!🔥
校風がめちゃ自由だったこともあり、、、
・目立ちてぇ!と思って、高校1年生で2度もブリーチをして金髪にしたり、
・クラスの友達とバンドを組んでドラムに挑戦したり🥁
・授業をサボって、友達の夏の野球の試合応援に行ったり
(先生に怒られたけど、試合は1回しか無いかもだから野球の方が大事っすよね。と吹っ切れてモメたw)
・またもや、1週間学校サボって、『北海道の雪まつり』に弾丸旅行に行ったり
(こんなにガッツリ北海道行ける機会もう無いだろうと思い立ち…)
・失恋の反動で乃木坂46をおっかけ、アイドルにハマったり…
(推しのアイドルに12回も握手しに行ったのは、良い思い出w)
・後半の3年は、「川の流れ」の研究にどっぷりハマって研究室&実験室に籠もりまくったり…
ダイジェスト過ぎますが
「The・青春」みたいな感じでした笑


↑赤い照明で分かりづらいけど、髪の毛青色に染めてますw
刺激的な日々 = 充実してる!
みたいな価値観で
「勉強→部活→バイト」を繰り返すみたいな
マンネリ同じことをずっとやるのが、マジで嫌だったんですよねー。
実際に、ルーティンワークをする
バイトは何1つ続かなかった…。
いくつもバイトを経験したけど、どれも2週間〜1,2ヶ月で辞めました😎
マニュアルを渡されたり、指示されたりしても
自分が良いと思ったやり方を貫こうとして反発しまくってた
尖ったナイフみたいな人間でしたw(扱いにくさMAX人間)
そのせいで人間関係が良かった記憶があまり無く
「思い通りできないなら辞めてやる〜〜〜」
って気持ちで生きてましたね。
今考えても救いようもないポンコツだ…😇
唯一、続いたのは個別で自由に教えて良かった『家庭教師のバイト』でした。
(やっぱ自由を求めてたんだなぁ…w)
人生と向き合うクソでかい「きっかけ」
そんなこんなで
日々を楽しんでいた所に、進路を決めなければいけない時期が。(このとき21歳)
このタイミングでほんとに急だったのですが
父親が急病で亡くなりました。
突然、大切な家族との別れ。
人生で初めて、身近な人の「死」を目の前に突きつけられたんです。
ちょうど、学校で微生物の実験の授業をしてたんです。
「父が危篤です。」その連絡が電話先から聞こえてきた…。
もう学校を全力で抜け出して、病院へひとっ飛び。
最後の瞬間には立ち会えたものの
やるせなさ。
父の亡くなる少し前に、会話できたのですが…
・家族の時間を大切すればよかった…
・もっと友人に会えばよかった…
・もっと旅行すればよかった…
・好きなことをやればよかった…
自分の状況を悟ったのか
「自由を我慢したこと」を後悔しつつも、
息子である僕には、「後悔なく」と伝えてくれたんです。
もうね、、、
この出来事で、僕の中の価値観がひっくり返りましたよ…。
・自分もいつ死ぬか分からない。「いつかやろう」は永遠にできなくなることもある
・「安定」ってそもそも誰のため?
・「幸せ」って何?
・自分はどう生きたいんだ?
・家族はどうなるんだろう…進路どうしよう…
刺激だ!の自由だ〜!の言ってた僕が、
初めて「深く自分の人生や周りの人のこと」を考えた。
今、これ書いてても
当時のことを思い出して、涙目でうるうるなってますね…🥺
中学生以降、ずっと親元を離れて暮らしていましたが、
仲は良かったので就職したら、稼いで
「父親と一緒にキャンプしたり釣りしたりしたいなぁ〜」とか
なんとなく思ってました。
自分の趣味のほとんどが父親ゆずりな部分もあるし
一緒に楽しむ時間を通して、親孝行とかしたかったのに…
もう永遠にできなくなった。
それがショックでショックで…。
そして、もっと早いうちに行動をしなかった自分を悔いましたね。
演技とかじゃなくリアルに「ちくしょおおおおおお」って言いながら
拳握って、地面叩いてました。


僕が行ってた専門学校は、工業系の大手企業への就職のしやすさが売りで、
みんなが就職先を決めて「やったー!」と喜ぶ中で、
本当に就職していいのか決めきれない「抜け殻」状態で
そのまま就職する気にはなれなくて、
自分を見つめ直すためにプラス2年の進学を選びました…。


新たな出会い
進学先では自分の専門分野(土木工学・防災)以外の
授業も自由に履修できるようになり、プログラミングにもふれましたねー。
編入学してきた友達と
たまたま寮でルームメイトになり、その友達から
毎日のように、Web関係やAIの話を聴いて
土木工学以外のものづくりにも興味を持ったんです💡
ただ、この時にはすでに就活が終わり、
地方公務員に合格していた状態でした。
家族からも
「周りを気にして好奇心に蓋をする必要はないよ、自分らしく生きたら?」
と言われましたが、
「そうは言っても…」
と、まだ心に迷いがある状態でした…。
ついに仕事!!!
卒業後は地方公務員として「港」に務めました↓
市役所とかじゃないんかい!とツッコミが来そうですが
けっこう特殊な場所だったんですよね〜。
港を専属で管理する組織みたいな。
そこで、技術職として
クルーズ船が泊まる岸壁の設計とか、運河補修の設計とかやってましたね!
道路とか橋とかダムとかトンネルとか、
いわゆる公共事業のものづくりの世界です。
港という場所もあり、
台風の時の高潮に対する防災対策とか
津波を見越しての設計とか「防災関係」がやれそうでちょっとワクワクだったんですよ!


見えてなさすぎた…ようやく気づいた…
「公共事業 = 人の暮らしを支える仕事」
当時の僕は、この言葉にちょっと酔ってました。
でも、現場は綺麗ごとじゃなかった
港の設計って、ただ頑丈なものを作ればOKじゃないんですよ。
工事を進めるには、
「この土地、工事の間だけ貸してください🙏」
そうお願いしに行ったり交渉したりする必要があるんです。
ほかにも漁協の方と工事側が、
バチバチに対立してることもある。
「ここに工事が入ったら、潮の流れが変わって魚が獲れなくなるかもしれないだろ!!」
そういう不安と、こちらの正論(防災・強靭化)が、
ぶつかり合う。
打ち合わせ、打ち合わせ、打ち合わせ…。
時間をかけて、
やっと少しずつ理解が進む。
そこで初めて僕は、
「今の時代のものづくりは、誰かとの譲り合いなんだ…」
と気づきましたね。
そして、その頃の実家に起きた悲劇…。
なんと「リニア新幹線の事業」で
実家の立ち退きが決まったんです…。
実家は田舎で、自然が豊かで、
そこに祖父母も一緒に住んでました。
近所との関係も、土地の思い出も、
全部がそこに積み上がってたんですよ。
そこが立ち退き…。
「援助金で新築とか立てられるからラッキーですね!」
そう楽観的に、僕達に声をかける人も居たけど
祖母からしたら、昔からご縁やお金で買えない「つながり」が全部が崩れるわけだから、
ラッキーなわけないだろ!!!!



僕がしんどかったのは、「家族の表情」です。
言葉にならない、やるせない顔。
「ここで生きてきたのに…」
って、祖母の顔がそう言ってた。
……もうね、
今でも忘れないですよ。そのシーン…。
その瞬間、
「公共事業って、誰かの犠牲の上でしか成り立たない」
って、腹の底から理解しました。
言われてみたら、そりゃそうだろ…と思うかもしれないけど
港の設計で見てきた対立が、まさに今度は自分の家の話になって
よく分かったんですよ。。。
第2の絶望…
正直に言います。
立ち退きの出来事以降、
仕事に心が乗らなくなりました。
ただこなすだけの日々に。もぬけの殻です。
「防災のため」「社会のため」
それは正しい。
でもその正しさの裏で、悲しむ人がいる。
その現実を知ってしまった。



「心をなくしてまで、この仕事を続けられるのか?…」
そう自分に問い続けるようになりました。
でも答えは、出ません。
ただ、心だけが削れていった…。
「プラスが生まれるものづくり」がしたかった
そこで考えました。
そんな「プラスが生まれるものづくり」が、
自分には必要なんじゃないかって。
じゃあ何がある?って思ったとき、
ふと学生時代の友人を思い出しました。
寮で一緒だったやつが、
プログラミングとかWebサービス作りをやってたんです。
当時は「へ〜」くらいだったけど、
その時の僕には、その思い出話が刺さったなー。
Web制作に触れて、世界が変わった
試しにコーディングを勉強してみたら、
これが…面白かった!!
コードを書いて、画面が変わる。
サイトが形になる。
考えたものがこうもすぐに形になっていく感じに
快感を覚えたんですよねーw
だって、設計→工事って
公共事業だと5年〜10年単位で
ようやく完成するものばかりだったから。
そしてなにより、Webサイトって、
「誰もなにも犠牲にしていないし、プラスだらけじゃん…!」
と気付いた!
僕が今あなたとつながれてるのも、
Webがあるからです。(ここまで読んでくれてありがとう🙏)
「これだぁああ…!」って思いましたねー。
転職じゃなく「生き方」を変えたかった
でも僕がWeb制作を選んだのは、
「仕事の内容」だけじゃないです。
家族の突然の死のこともあったし、
今度は自分がいつそうなるか分からない…。
そう思った時に…
自分が行きたい場所に行けて、やりたいことを選べる人生にしたかった。
世間で言う公務員の「安定」を捨ててでも、
自分でサバイバルしていく道を選びたかった。
綺麗な言い方するとそうだけど、
本音はもっとシンプルで、
「このままじゃ、自分の人生行きてないのと同じだ!」
って思ったんです。
そこからの勉強は、わりと狂ったように進んだ
公務員をやりながら、本気で勉強しました。
食事すら時短だと考えていて、コンビニでカレー買って、レンチンして、
小走りしながら食べて、(行儀悪いw)
「「「 帰ったらすぐコード書けるように…! 」」」
って、時間を捻出してました。
でも、それくらい本気だった。
そして、退職→独立へ
一通りサイトが作れるようになって、
公務員を退職。
そこから営業して、
Web制作で食べていくようになったんですね〜〜!
ここまでが、
僕がWeb制作に出会うまでの話です。
なんでこの話をここまで書いたのか
自己紹介のつもりで書いてたら、
気づけば当時を思い出して、感情がぐわんぐわん動きました…。
正直、
まとまりきってない部分もあると思います。
でも。
もし今、
「一歩踏み出したいけど、怖い…」
「本当に自分の人生このままでいいのかな…」
「今の仕事に心が乗らない…」
そう思ってる人がいたら、
この話が、
行動の「火種」になったらいいなと思ってます!
今の僕は、
ありがたいことにWeb制作を軸にして
いろんな挑戦ができるようになりました🙌
公務員時代よりも、
働きがいも、感謝される機会も増えました🙏
そしてこれからも、
自由を追求しつつ、
周りの人を大事にしながら、事業を育てていきます!🔥
ここまで読んでくれて、
本当にありがとうございます!
また今後の発信(ブログやX)でも、
皆さんの行動のきっかけになることを発信していきますね!
P.S.
ちなみに、この記事で話した先の「Web制作でフリーランスとしてどう歩んだか?」は
こちらの『無料プレゼント動画』の前半でお話しています^^
こちらもぜひご覧ください ↓


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